中世の堺の地位は?
1595年にアントワープ(今のベルギー)で出版されたオリテリウス・ティヒラの日本の古地図(堺市博物館蔵)のよれば、当時の日本列島に挙げられている都市の名前はミヤコ(都)、サカイ(堺)、ヒラド(平戸)、イワミ(石見銀山)で、勿論江戸や長崎、大阪の地名は一切見当らないほど、当時の堺はイエズス会の宣教師達や、東南アジアへ雄飛した堺商人によって、ヨーロッパ各地に堺の名が知れ渡っていました。
応仁の乱(1466~1477)の10年間の内戦で、都がすっかり灰燼に帰し、都の難民(職人達)が南北朝、室町時代から栄えていた堺を目指して移り住み、堺の産業発展に寄与したことも幸いしました。地名に綾之町、錦之町がいまも用いられているのは西陣の職人達が織屋を営んでいた証拠であります。
いずれにしても中世の海外への玄関口として発展せしめた堺の先人達を忘れてはなりません。近年政令指定都市となりましたが往年の堺は世界でも驚くべき繁栄都市であったことを知っていただければと思います。
東洋のベニスと呼ばれたのはここに所以があります。